聖クララ会の聖女たち

聖クララ会の聖女たち

1.アッシジの聖アグネス

1197-1253.8.15 祝日 11月19日


2.プラハの聖アグネス

1211-1282.3.2 祝日 3月2日


3.聖クネグンダ

1224―1292.7.24 祝日 7月23日


4.聖コレッタ

1381.1.31-1447.3.6 祝日 2月7日


5.ボローニャの聖カタリナ

1413.9.8-1463.3.8 祝日 5月9日(3月9日)


6.聖ユストキア

1434.3.25-1491.1.20 祝日 1月19日


7.聖バプティスタ・バラノ

1458・4.8-1524.3.31 祝日 5月30日


8.聖ヴェロニカ・ジュリアニ

1660.12.27-1727.7.9 祝日 7月10日


アッシジの聖アグネス

アッシジの聖アグネス

 1197年、イタリアのアッシジ生まれ、聖クララの5才年下の実の妹-洗礼名はカタリナ。

 アグネスはクララが聖フランシスコのあとに従って修道生活に入った、5日後にクララの後を追いました。そのことを知った親戚の者たちは、すぐにクララのもとに留まっているアグネスを取り戻そうとやってきました。クララの時に失敗したその人々は、力づくでアグネスに迫り、暴力で連れて行こうとしましたが、アグネスは暴力に屈せず、更に妹を思いやるクララの祈りで、親戚の者たちはあきらめて帰って行きました。

 そのことを知ったフランシスコは、暴力にも屈しなかったその勇気が殉教者聖アグネスのようだと言って、彼女をアグネスと名付けました。 後に、母のオルトラーナと妹のベアトリーチェもサンダミアノに入会し、アグネスはモンテチェリの修道院の院長として派遣されました。

 アグネスは、クララの後に従い、5日後に修道生活に入りましたが、その臨終においても愛するクララに従い、5日後に天に召されました。

プラハの聖アグネス

プラハの聖アグネス

 1211年、ボヘミア王オタカール1世とハンガリー王エンドレ2世の姉妹コンスタンスとの間に生まれた。ハンガリーの聖エリザベトの姪。

 皇帝フリードリッヒ2世の息子とイングランド王ヘンリー3世から求婚されましたが、教皇グレゴリオ9世の保護のもと、貞潔を守りました。

 アグネスは23才の時、7人の司教と国王ヴェンケスラス1世と王妃の参列のもと、クララ会修道院へ入会しました。その後、ボヘミアは飢饉や疫病、戦争が続き、多くの貧しい人がアグネスの修道院へ避難して来ました。 アグネスは深い信仰と祈りをもって教会を支え、人々に争いを避けるように促し、司祭たちをふさわしい生き方に導きました。そして、厳しい清貧の生活を送り、度々クララと手紙を交わしました。聖クララからアグネスに宛てた手紙が、4通残っています。

 1989年11月12日ヨハネ・パウロ2世によって列聖。

 アグネスが列聖される時、チェコの共産主義は倒れると古くから言い伝えられていましたが、果たしてその預言通りになりました。

聖クネグンダ

聖クネグンダ

 1224年にはハンガリー王ベラの娘、チューリンゲンの聖エリザベトの姪、福者ヨレンタの姉として生まれる。

 若い頃、ポーランド王ボレスラオ5世と結婚しましたが、王はクネグンダの望みを受け入れて、40年間貞潔の生活を送りました。その間、クネグンダは在世フランシスコ会員としてクラコフで在世会の会服を頂き、その後は公にその会服を着用し、祈り、償い、愛の業に励み、病院と癩病院を建て、病人の世話をしました。聖女が一人の癩病人の傷に唇をあてた時、その傷は癒されたと伝えられています。 1279年、夫の死後は、自分の持ち物をことごとく売り払い、貧しい人にそれを施して、サンデックのクララ会に入会しました。院長となったクネグンダは、母の愛をもって、言葉よりもその模範によって姉妹達を高い完徳にまで導きました。 1287年ポーランドが蒙古(モンゴル)から攻められたとき、クネグンダは70人の姉妹達と共にカルバチア山のふもとにあるピエニン城に避難しましたが包囲されてしまいました。聖女が主への信頼のもとに熱心に祈りを捧げると、アッシジで聖クララの祈りで行われたと同じ奇跡が起こり、敵は突然の恐怖に襲われて逃げ出しました。

 ポーランドとリトアニアの公爵領の保護聖人(1715年)

 1999年6月15日 ヨハネ・パウロ2世によって列聖

聖コレッタ

聖コレッタ

 1381年、フランスのコルビーに生まれる。コレッタは、なかなか子供に恵まれなかった年老いた両親から生まれました。コレッタという名の由来は聖ニコラオを尊敬していた両親がつけた「小さいニコレアーニコレッタ」の略です。

 18才の時、コレッタが祈っているとイエス様が現れ、人間が罪を犯すことを深く悲しまれました。その時、聖フランシスコも現れ、主に「コレッタに罪びとの償いと聖クララ会の刷新をさせたらどうでしょうか」申し上げたところ、主は快く同意されました。本人はこの大任を果たす自信がないため、当初は躊躇していましたが、度重なる啓示の為にそれに従うことを決心しました。

 1406年に教皇に謁見し、聖クララ会の会則を原始会則に戻し刷新することを願い、生きている間に18の修道院を創立しました。院長でありながら、自らは最も粗末なものを選び、良いものは全て姉妹達に与え、姉妹達に仕えました。

 コレッティンと呼ばれる修道女たちはクララ会の中でも、厳しく原始会則を守り、清貧や禁域を遵守して生活しているグループです。

 *私たち桐生聖クララ会はO.S.C.ですが、コレッティンの会憲に基づいています*

 不妊の夫婦から生まれた聖コレッタは子供を待望する夫婦の力強い取り次ぎ手です。

ボローニャの聖カタリナ

ボローニャの聖カタリナ

 1413年、イタリアのボローニャの貴族の家庭に生まれる。9歳の時フェララ候の娘と一緒に特別な教育を受け、ラテン語を修得し、音楽を学び油絵もマスターしました。

 修道生活を始めたころ度重なる悪魔からの誘惑に会いましたが、試練に打ち勝つために記した『霊的戦いに必要な7つの武器』という著作を世に残しました。


①勤勉に労働し、常に善を行う努力を心がけること。

②自信過剰にならず、良いことは自分の力では何もできないと考えること。

③神だけを信頼すること。神への愛ゆえに、世においても、自分の内面においても、悪と戦うことを恐れないこと。

④イエスの生涯における出来事と御ことば、特にイエスの受難と死をしばしば黙想すること。

⑤自分の死を思い起こすこと。

⑥いつも、天国を憧れ望むこと。

⑦聖書に親しみ、心の中に聖書をいつも携え、聖書によって自分の思いと行いの全てを方向づけるようにすること。


 完徳を目指す手段として

(1)祈りの精神 

(2)しばしば聖体拝領をすること 

(3)聖母信心 

を聖カタリナは勧めています。


 また、カタリナは1458年ボローニャに、聖クララの会則に従った修道院を建て、院長として、当時分裂していたボローニャ市民のために、御聖体の前で祈り、ついに和解をもたらしました。死後遺骸は腐敗を免れ、今もボローニャのコルプス・ドミニ修道院に安置されています。 素晴らしい音楽家であり美術家であった聖カタリナは、美術家の保護聖人。

聖ユストキア

聖ユストキア

 1434年、イタリア、シチリア島メッシーナ伯爵家の生まれ。母マルチダ・コロンナは在世フランシスコ会員でしたので、その母から深い信仰を受け継ぎました。ある日、教会で主の十字架の示現を受け、自らを主に奉献することを決心しクララ会に入会しました。ユストキアは、より厳しい修道生活を望み、教皇カリスト3世の許可のもと、清貧への忠実さを生きる新しい修道院を創立しました。後に母も姉もその修道院に入会しました。

 1460年、フランチェスコという少年が、大雨の後、13世紀にオリジナルから作った聖クララの原始会則の写本が川から流れてくるのを見つけました。少年の父親が近くのクララ会にそれを持って行きましたが、原始会則を生きることを切に望み続けていたユストキアこそ、その修道院の院長でした。

 ユストキアが十字架の前で捧げた祈りが残っています。

「わたしのいとも優しい主よ、あなたが私の為に亡くなられたように、あなたへの愛のゆえに私の命をお取り去り下さい。あなたの痛みに満ちた御受難の槍と釘で、あなたの聖なる御体に刻まれた御傷を、私の心に刻みつけて下さい。」

 聖ユストキアの遺体は腐敗せず、大地震が起こったとき、取り次ぎを求めて地震は治まり、被害はありませんでした。メッシーナの保護聖人。

聖バプティスタ・バラノ

聖バプティスタ・バラノ

 1458年、イタリアのカメリノ市に生まれたカミラは8才の頃、主の御受難の説教を聞いて心を打たれ、それからは金曜日には主の御受難を涙をもって黙想をする決心をしました。ある時、イエス様はカミラにお現われになりましたが、その聖心には金色の文字で『カミラ』と書かれていました。

 23才の時、クララ会に入会しバプティスタの修道名をいただきました。十字架に付けられたイエスの聖心に対する熱心な信心を持ち、主への愛のためにどんな苦しみも引き受けました。彼女は自らの人生が継続する聖金曜日であることを望んだのです。

 聖バプティスタは私たちに「すべての苦しみを変容させ、すべての孤独を満たす復活された方の光と現存が、人間のうちに隠れている」とのメッセージを残しています。 そして、多くの著作を残しました。

 2010年10月17日 べネディクト16世によって列聖

聖ヴェロニカ・ジュリアニ

聖ヴェロニカ・ジュリアニ

 1660年、イタリア、メルカッテロ生まれ、7人姉妹の末っ子で洗礼名はウルスラ。1人の姉はメルカッテロにあるクララ会に修道院へ入会し、ウルスラと2人の姉はウンブリア地方にあるカプチンクララ会に入会しました。33年間修練長を務め、11年間院長を務めました。謙遜の道を極め、度々悪魔からの攻撃を受けましたが、神に対する不動の信仰によって悪魔に打ち勝ち、主の受難に与る事を喜びとしました。 優れた神秘家で、1697年の聖金曜日に聖痕を受けましたが、痛みだけを残して、傷は見えないようにして下さるよう主に祈って聞き入れられました。