聖クララとは誰ですか?

聖クララとは誰ですか?

 聖クララは、1193年7月16日イタリアのアッシジに生まれました。裕福な騎士ファヴァローネとオルトラーナの娘として育ったクララは気高い精神の持ち主でした。母はクララを身ごもっていた時、十字架の前で祈っていると「あなたは世界を照らす偉大な光を生むだろう」という声を聞いたのでした。(列聖調査)

 その頃、アッシジでは聖フランシスコが福音を生きて証しし、全き清貧の道を歩み始めていました。クララはそんなフランシスコの生き方に憧れ、1212年の枝の主日に全てを捨てて家を出、フランシスコと兄弟達の待つポルチュンクラへと走りました。 その小さな教会の祭壇の前で、フランシスコによってクララの美しい髪が切られ、クララは世俗の衣服を脱ぎ、悔い改めの貧しい修道服を身につけました。こうして、クララは神と婚姻を結び、主キリストの花嫁となりました。 クララ会の生活の第一歩が始まったのです。

 クララは自分のことを「聖フランシスコの小さき苗木」と呼びました。(会則、遺言)それは、フランシスコによってサンダミアノの小さな園に植えられ、そこで根を張り大きく枝を伸ばし、美しい花を咲かせ、多くの実を結んだからです。

 孤独と沈黙―それはクララがその修道院の囲いの中で、自分と姉妹達の為生活様式として選んだものです。実際その生活とは、清貧と労働、試練と病気のうちに、姉妹愛を育みつつ神との一致を目指すものでした。「クララの生活は“感謝の祭儀-ユーカリスト”そのものでした。なぜなら彼女はフランシスコのように、囲いの中から祈り、賛美、懇願、取り次ぎ、嘆き、奉献と犠牲のうちに神に絶えざる“感謝”を捧げたからでした。」(ヨハネ・パウロ2世―同教皇書簡) ) クララは最も卑しい仕事を率先して行い、絶え間なく祈りました。また、病気の姉妹達には十字の印をして愛をこめて祈りました。すると奇跡的に多くの癒しが行われました。 クララは貧しく裸で十字架に釘付けられた主イエス・キリストを熱烈に愛し、御聖体を心から愛し大切にしました。そのために、クララは終課の後と食事の後に姉妹達に聖水を振りかけて祝福しながら、「姉妹達、娘たちよ、十字架に釘付けられた私たちの主イエス・キリストの脇腹から流れ出た聖なる水を忘れずに心に留めていなさい。」と語りました。(列聖調査)

 1240年9月のある金曜日に、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世の傭兵であるサラセン人がアッシジの町を襲い、サンダミアノに侵入しようとしました。その時、重い病気だったクララは御聖体の前に平伏して、町と姉妹達を守って下さるようにと涙ながらに祈りました。すると、御聖体の中からイエスの声が、しかも幼子の声で「私はあなたたちを常に守るであろう」約束して下さり、本当に町と修道院とはクララの祈りで守られたのでした。

 クララは、女性で初めて会則を書いた人でしたがその会則の認可は臨終の前日の1253年8月10日でした。教皇様からの会則認可の知らせが届くとクララは病床の中で会則を抱き、涙ながらに接吻しました。 臨終が間じかに迫った時、クララの床の周りに白い衣をまとい冠をかぶったおびただしい数の乙女たちが入ってくるのを見たと目撃した姉妹は証言しています。その中でもひときわ高貴で、はるかに美しく、他のものよりも大きな冠をかぶったお方、つまり、天の元后―マリア様がクララに近づきクララのベッドを天上の非常に繊細な布で覆いました。 ついに臨終の時を迎えたクララは傍らにいた姉妹に言いました。「私が観ている栄光の王が見えますか?」(列聖調査) ここにおいてクララの観想の旅は頂点に達したのです。

 「ああ、讃えられよ我が主、あなたは私をお造りになったゆえに・・・」との最後の言葉を残してクララは栄光の王と共に御国へと導かれて行きました。 教会はクララの事を“燭台の上に置かれ、教会を照らすともしび”(列聖大勅書)としてその死の2年後1255年8月15日に列聖しました。


“O Clara, luce clarior, Lucis aeternae filia:”

         おぉ、クララ、光より光り輝く、永遠の光の娘 ・・・


 母なる教会は、中世紀から、聖クララをこのように聖務日課の賛歌の中で歌い継いできました。 ラテン語で“クララ”とは、「光り輝く」という意味です。イタリア語では“キアラ”、英語では“クレア”、フランス語では“クレール”と発音し、クララは時空を越えて、今も世界中で愛され光り輝いています。