聖ヨセフの沈黙に耳を傾けて
聖ヨセフの 日常的で、目立たない、隠れた存在に注目してください 教皇フランシスコ
教皇フランシスコ
ヨセフとマリアはナザレで暮らしていましたが、まだ結婚していなかったので、まだ一緒には住んでいませんでした。そのうちマリアは、天使のお告げを受けたあと、聖霊のわざによって身ごもりました。このことを知ると、ヨセフはうろたえました。福音書はヨセフが何を考えたかを説明せずに、本質的なことだけを述べます。ヨセフは神のみ心を行うために、もっとも徹底的な断念を進んで行おうとします。ヨセフは自分を守ることも、自らの権利を求めることもせずに、ひとつの解決法を選びます。この解決法は彼にとって大きな犠牲となるものでした。福音書は述べます。『夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した』(マタイ1:19)。
ヨセフがマリアをどれほど愛していたかを考えるなら、この短いことばは真の内的なドラマを要約しています。しかし、このような状況にあっても、ヨセフは神のみ心を行おうと望んで、当然のことながら深い悲しみのうちに、マリアとひそかに別れようと決心します。…
この福音は聖ヨセフの心の偉大さを余すところなくわたしたちに示します。ヨセフは人生のよい計画に従おうとしましたが、神は別の計画を、すなわちより偉大な使命を彼に与えました。ヨセフはつねに神のみ声に耳を傾けその秘められた望みを深く感じることができる人でした。彼は人生の計画を実現することに固執することも、心にうらみを抱くこともなしに、人を当惑させるようなしかたで自分に示された新しいことのために進んで身を捧げました。このように彼は善良な人だったのです。彼は憎まず、心にうらみを抱きませんでした。…
こうして、ヨセフはますます自由で偉大な人となったのです。ヨセフは主の計画を受け入れることにより、自分を超えて、完全な形で自らを見出します。ヨセフは自分に属するもの、自分の生活の中でもっているものをあきらめる自由と、神のみ心に対する内的な従順をもっていました。そのことは、わたしたちに問いかけるとともに、道を示してくれます。
トマス・ハワード 文学者
わたしたちは、今日、聖ヨセフに誉れを帰しています。わたしたちはべネディクションの賛美において、「聖母のいとも貞潔なる淨配、聖ヨセフ」と唱えます。
彼についてほとんど何も知りません。しかし、聖ヨセフの名が天国の名簿の先頭にあるということ、彼が天国の中心にいるということを知っています。わたしたちのあがないの神秘の中でこの人物を忘れることはできません。主の降誕、あるいは主の奉献、あるいは主が神殿で見出された場面の絵画は、彼なしには完成しません。聖書の中で彼の名につけられているのは、わたしたち死すべき存在のひとりとして獲得されたもっとも高貴なタイトルであることを見出すでしょう。福音は語っています。彼は義人であった。
この知られざる人物の中に形をとっている「義人であること」とはどのようなことなのでしょうか。天国のお方の目にとって、彼をおとめなる神の母の守護者となるにふさわしいものとするために、幼年時代、青年時代に彼は何を学んだのでしょうか。ヨセフのような人は、今日あなたやわたしが期待している以上には、このような神の訪れを期待するなどと言うことは決してなかったことでしょう。
ところが、突然、このような訪れを受けることとなったのです。マリアを(自分の家に)迎え入れなさい。しかし、彼女は想像を絶する召しだしのために選ばれていたのです。彼女は、「その末はへびの頭を踏み砕く」と言われていた女性です。彼女は第二のエバです。彼女は「テオトコス」すなわち神の母となるべき方です。彼女はあらゆる時代に教会によって「比べるべき者のないセラフィムより栄えある方」として誉れを帰されることになっています。そして彼女はひとりの子をもたらし、その名はイエズスと呼ばれます。なぜなら彼は民をその罪から救う方だからです。
エラスモ・リーバ・メリカキス シトー会士
ヨゼフは、神が彼の前に差し出した神秘の中に飛び込んだのです。しばしの間、ひとりの男性の心と思いが、からっぽの舞台となったのです。この舞台が、神と人間、おそらく誰よりも正しく清らかな人間であっても、神と人間の思い、神のみ業と人間の業の間に対立が起こり得ることを証しする場となりました。わたしたちの貧しい知恵と私たちにとって正義ということが意味することに対して、神の卓越した知恵と正義が勝利をおさめることに同意するために、この内なる劇場あるいは法廷の中に、ヨセフのようにあえて降りていく人がどれほどいるでしょうか。ヨゼフは神に対してどれほど開かれていたことか!ヨセフは、快く承諾して、神の新奇なご計画に従って、自分の生活をまったくゼロの状態から始めて、建てあげていったのです。
突然、永遠の聖心から発せられた神の啓示の稲妻がヨセフの人間的な思考をさえぎったのです。自分の魂という舞台から個人的な装飾をすべて可能な限り剥ぎ取ったままでいるように努めながら、ヨセフは、神が主役としてこの舞台に入ってくることに同意しました。長く、労苦に満ち、悩み多い人間の考えと、突然、激しく、論争の余地のない神からの照らしが互いに呼び交わすのです。神のみ前で信仰をもってなされたヨセフの暗い当惑は、思いがけず、彼の魂を照らす光を招き寄せるものとなったのです。神に差し出された悲しみと混乱は、神の到来を招くのです。抵抗することなく、なんとかして揺らぐろうそくに光をともすようなこともせず、暗闇の中で耐え忍んでいるなら、神の癒しをもたらす光があなたに侵入してくることでしょう。
ヨセフは、自分の運命を思いめぐらすことに疲れ果て、眠り込んでしまいました。夢の中で、神は彼に語りかけられたのです。ヨセフは、まず、人間的な論理の筋道から自分を引き離さなければなりませんでしたが、たとえ理解できなくとも、喜んで神のご命令を受け入れました。「眠っている間も、神によって養われる」(詩編127:2)はずではなかったのでしょうか?これは、怠惰や無関心の眠りではありません。忠実さと骨の折れる労苦の結果として甘美に訪れる観想の眠りなのです。
リヅィ ヨセフの夢
ボスエ司教
神は、義人聖ヨセフに、見たところとがめられるべき状態であったにもかかわらず、自分の忠実な妻として祝福されたおとめを迎え入れ、同じ家に住むこと意外には何のつながりもない幼子を自分自身の息子として受け入れ、保護者であり守護者としてこの方に奉仕することを無理強いなさった神に誉れを帰するように、とお命じになりました。
デリケートな感情が自然ではなくなっていくこの三重の状態において、心を従順で順応性のあるものにできるのは、ただ卓越した単純さだけです。聖ヨセフはどのように前進して行ったのでしょうか。自分の聖なる配偶者に関する疑いが少しは和らいでくるとか、嫌疑が晴れていくと言うことは決してありませんでした。にもかかわらず、ヨセフがあまりにも正しい人だったので、天を巻き込むことなしに完全な結論を出せずにいたのです。
こうして、神によって天使がヨセフに告げたのです。彼女は聖霊によって懐胎しているのだ、と。もし彼の意向が誉れに値しなかったなら、もし彼が部分的にしか神のものとなっていなかったとしたら、ヨセフは神にまったく自己を明け渡すことはなかったでしょう。魂のもっとも深い部分に疑いのかけらが残り、祝福されたおとめに対する彼の愛情がいつまでも疑惑と恐れの色合いを残したことでしょう。しかし、ヨセフの心はまったく単純に神を求めており、神との完全な一致以外の何も知らず、彼の聖なる配偶者の無傷の徳は天の証言を受けるに値するものであることを認識することにまったく困難はありませんでした。
アブラハムが、聖書の中で完全な信仰の模範と描写され、不妊の女が子を宿すことを信じたことのために旧約聖書の中で賞賛されていようとも、ヨセフの信仰はアブラハムの信仰に勝っています。ヨセフは、マリアがおとめであることを信じながら、処女懐胎という偉大で近づきがたい神秘を単純に理解したのですから。
モーリス・ズンデル(司祭)
マリアが奇跡的に神の母となられたこと、このようなことを引き受けるということは、もっとも神聖な奉献でした。マリアの母性は、彼女の童貞性の卓越した成就、彼女の奉献という神的花、愛の戴冠式、最初の瞬間から彼女のもっていたものをすっかり手放してしまう清貧のゆりでした。
婚姻を完成する儀式の成就として彼女を自分の家に迎え入れることによって、ヨセフは彼女の童貞性を守りぬくほどにまで自分の配偶者の母性に参与しました。つまり、ヨセフはこの母性にまったく奉献され、マリアにとってそうであったように、聖霊の働きによるあのすばらしい実りにおいて自分の子を生む能力を完成させたのです。
こうして、後にマリアは、もっとも感動的な優しさともっとも美しい謙遜をもって語ることができたのです。「あなたのお父様もわたしも、心配してあなたを探していました」(ルカ2:48)。
イエズスはまことに彼らの婚姻による子です。彼らの童貞性は実り豊かです。彼らの体は高められ、いのちをもたらす衝動の卓越した現実において平和に満ちていました。彼らを結ぶ絆は彼らの子の神としての位格、彼らの婚姻は、完全な一致の比類ない程度にまですべてを結び合わされた、聖なるもので、永遠です。fides信仰、proles子孫、sacramentum秘跡 :忠実、実り豊かさ、解きえないもの。
ドゥッチオ 主の降誕
おとめマリアのそばに座っているのは聖ヨセフです。このあがない主の聖なる守護者は、キリストの誕生の神秘に、もっとも親密に、すぐそばにいるという祝福にあずかりました。ドゥッチオはマリアのそばに、神のすばらしいみ業の表れを思いめぐらしながら、驚きと感嘆の念に深く沈んでいるヨセフを描きました。(ジェム・サリバンによる解説)
福者ドロシー・デイ(カトリック労働者たちの友)
失望が支配しているときに宗教にとどまるということは戦いです。皆さんのことを動物以下としかみなしていないような雇い主が皆さんのことを無関心のまま放っておくときに、自分たちは神のイメージであり神に似たものとして造られているのだ、ということを思い出すのは戦いです。一人の人のプライドや尊厳に心を留めること、わたしたちはキリストの兄弟で、この方はわたしたちの人間性を分かち合うことによってそれを高めてくださったのだ、ということを思い出すことは、厳しい戦いです。
けれど、このように考えることこそは、勇気を与え、希望を運んでくれるはずです。
人の子キリストは33年の間わたしたちの間に生活されました。そのほとんどは目立たない人々の中でくらしておられたのです。赤ちゃんだったとき、彼の養父は彼をつれてエジプトに避難しなければなりませんでした。ヨゼフは大工で普通の労働者でしたし、おそらく、大多数の労働者以上のたくわえは持っていなかったことでしょう。灼熱の乾燥しきった荒野の中、弱り果ててとぼとぼと歩き続けていた間、まぎれもなく、彼もマリアも幼子もおなかをすかせていたことでしょう。砂漠地帯から南部カリフォルニアを目指して山や荒野を横切って避難しているヒッチハイカーたちは、自分たちが苦しんでいるかのように、エジプトへの避難を思い出すのではないでしょうか。
わたしがロス・アンジェルスにいたころ、生後一ヶ月の赤ちゃんと18ヶ月になるもうひとりのお子さんを連れた若いご夫婦がわたしたちのところにいらっしゃいました。彼らの旅の最後の部分は、ある親切な労働者が自分の車に乗せてくださり、さらに彼は自分が夜勤で働いている間この家族にベッドを提供して、自分は昼の間に休んでいました。二人のちびちゃんたちのお父さんであるこの旅人は、大工でした。この失業した男性の中にヨセフを見出しませんか。この小さな家族の中に聖家族の縮図が見えませんか。彼らに助けの手を差し伸べた労働者の中にキリストが見えませんか。繰り返しますけれど、皆さんに向って宗教についてお話しするのは大変です。けれど、互いの間に信仰がなければ、わたしたちは進んでいくことができません。希望がなければ進んでいくことができません。希望がなければわたしたちは生きていくことができません。希望のない方々、皆さんの兄弟であるキリストを皆さんに思い出してほしいのです。キリストを通してわたしたちの兄弟性について考える宗教とは、人民のアヘンなどではありません。信仰は戦いです。「その武器は神に由来する力であって要塞を破壊するに足ります」(2コリ10:4)。皆さんの中のこの高貴な天性(信仰)を資本家や共産主義者に殺させるようなことがあってはなりません。
このマルチネスの作品はなんと心に触れることか。なんと美しい肖像画なのでしょうか。この肖像画が表現しているように、世界中の親御さんたちは、その微笑みに、まなざしに、その愛の深さと自己意志の強さとの両方をたたえていることをうかがわせる自分たちの小さな子供の顔を眺めて、驚かされたり心和らいだりされたことがおありでしょう。ですから、このかわいらしい幼子が養父に対して次のように語りかけているように思えることでしょう。「心の底からあなたを愛します。でも、ボクはボクだよ。」幼子は果物に手を伸ばしていますが、ヨセフはそれを妨げています。ここで、果物籠は象徴的にイエズスの使命、御父のみ業です。彼はこの使命をご受難において絶頂を迎えるまで果たしつくさねばならないのです。濃い赤ぶどうは神性、白いぶどうは人間性です。このふたつの間におかれている薄紫のぶどうは、まことの神、まことの人であるキリストを示唆しているのです。幼いキリストの服の色もまた、彼の刺し貫かれた聖心から流れ出る御血と水を混ぜ合わせた色をしています。たくさんの種をもつざくろはたくさんのメンバーによって構成されている教会です。りんごは罪深い人類を思い起こさせます。まるでこの幼子は次のように語っているかのようです。「わたしの御父のみ業を完成に至るまで成し遂げることを、どれほど憧れていることか!」。しかし、ヨセフは、その御父からの光に包まれて幼子を戒めます。「あなたの時はまだ来ていません」と。
(ピエール・マリー・ドュモンによる解説)
福者ドロシー・デイ(カトリック労働者の友)
仕事は進めていくしかありません。わたしたちは、問題を聖ヨセフの手におきました。昨日の朝、わたしは聖ヨセフの祭壇の前にろうそくをともし、労働者である聖人の栄えあるお姿を観想しました。彼はそこにすっくと立ち、頭をそらせ、その力強い腕で幼子を抱き、ごミサの間ひざまずいている労働者の会衆たちを見下ろしながら、その顔に微笑みをたたえています。わたしたちは、開けっぴろげに彼に話しかけました。「あなたは、わたしたちを助けてくださらなければなりませんよ。教皇様がおっしゃっておられるんです。大群衆が教会を見失ってしまった。わたしたちの方から彼らの元に出かけていって、彼らに話しかけ、神の愛をもたらさなければならない、って。弟子たちは、エンマウスへの疲労に満ちた旅の果てに座って一緒に食事をして下さるまでは、自分たちの主に気がつかなかったのです。パンを割いたとき、主だと気がついたのです。この数日間、どれくらいのパンを割いて互いに分かち合ったことでしょう。13,500個です。先月もそのくらいでした。この仕事を続けていけるよう、わたしたちを助けてください。パンを割きながら互いに知り合うことができるように助けてください。互いに理解しあいながら、少なくとも神の子であることを理解しながら、わたしたちは主を知るようになっていきます。」
わたしたちは、昨夜、こんなんことを話し合いました。もし、この数ヶ月にわたしたちのもとにやってきた人々の群れをあらかじめ見ていたら、わたしたちは決してこんなことを始める勇気を持たなかったでしょう、と。けれど、わたしたちは、ただ、その日その日ならやっていけるのです。
リベラ 大工ヨセフ
ジョゼフ・デ・リベラは、ここで、父性の保護の聖人ヨセフを通して、神の父性を啓示している人間の父性を、自分と一緒に観想するようにとわたしたちを伴ってくれます。若く高貴で美しい男性、ヨセフはアーモンドの枝でてきた杖をしっかりと握っています。福音書外典によれば、彼がマリアの汚れなき聖心によって選ばれた日に、この杖に花が咲いたのです。モーセとアロンの杖のように、この杖はヨセフにゆだねられた神の権威と彼の使命を思い起こさせます。羊飼いの杖のように立つこの杖は、ヨセフが羊飼いダビドの子孫であることを際立たせ、この聖なる男性に神の子羊を人間として成熟するまで守り導く務めが与えられていることを表して、しっかりと立っています。イエズスは大工道具の入った籠を抱えています。幼い時から、イエズスは自分の父親のそばで熱心に働いていたのです。もっともしばしばでかけていったのは、ナザレから4マイルほど離れたセフォリスという新しい町の巨大な建設現場だったでしょう。イエズスは、建築資材の上に腰掛けて、マリアが二人のためにこしらえたお弁当を、日ごと、ヨセフと一緒に分け合ったことでしょう。イエズスは、ヨセフからすべてを学びました。どのようにしたら大工になれるのか、どのようにしたら一人前の男になれるのか。「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もできない」(ヨハネ65:19)とおっしゃったではありませんか。のちに、神について語りながら、イエズスが「父は働いておられる。わたしも働く」とおっしゃった時、イエズスは御自分の感情を入れることはなさいませんでした。イエズスは、まさに父と子の間の愛と働きによる交わりのこのような人間的な深みを体験したことがあったからです。しかし、12歳の時、イエズスは神殿で「迷子」になり、母は彼をとがめました。「あなたのお父さんもわたしも心配して探していました」(ルカ2:48)。イエズスは答えます。「わたしが父の業をおこなっていることを知らなかったのですか」(2:49)。少年イエズスが彼の父に向って目を上げている時に、彼の父親が振り返っていないのはそのためです。父親は息子のまなざしに合わせて天の御父に目を上げています。イエズスが大工道具を持ち上げて捧げているのも神である彼の御父に向ってなのです。イエズスがこの世界のためにご自分のいのちをお捧げになったのも大工が作ったものの上だったのではないでしょうか。大工道具である金槌と釘でもって彼がそこに釘付けられたのではなかったでしょうか。この世界を救う十字架のもっとも大切な部分は大工ヨセフが手がけたのではありませんか。(ピエール・マリー・ドゥモンによる解説)
ボスエ司教
わたしたちは皆、信頼されて何かを預かるということは聖なる義務を果たすことであるとよく意識しています。その人は、自分の誉れのためというよりも、むしろ宗教上の遵守の類に呼ばれているのです。聖アンブロジウスが言っているように、祭壇の前で安全に守っていただくために司教や聖職者のもとにもっとも価値ある財産を持っていくことは信心深い習慣です。つまり、宝物は神がご自身の聖なる神秘を置かれる場所以上によく守られる場所はない、という聖なる悟りです。この習慣は旧約時代の会堂から伝えられたものです。聖なる歴史において、エルサレムの尊敬すべき神殿はユダヤ人たちにとって安全な保管場所でした。不敬な書き物によれば、異教徒も、同じように自分たちの宝物を神殿の中に置き、自分たちの祭司たちにそれを守らせることによって偽りの神々に誉れを帰していました。この自然の成り行きは、預かり物を保つための責任は宗教的な人物であり、大切なものは神がお現れになった場所で宗教者として聖別された人に手渡すこと以上に安全なことはない、ということを教えているかのようです。
しかし、聖なるという言葉にふさわしく聖なる様式で守られるにふさわしい預かり物があるとすれば、今日、わたしがお話している方、マリア、永遠の御父の摂理があの義人ヨセフの信仰にゆだねたマリアこそはその預かり物でしょう。まさにヨセフの家は聖別されていました。そして、まことに彼は聖別されていました。彼の体は純潔によって、彼の魂はあらゆる恵みの賜物によって聖別されていました。
以上、疑わしい推測によるのではなく、聖書と教父たちから引き出された確かな教議に基づいた聖ヨセフへの賛美に基礎を置くわたしなりのやり方で、神の宝物を守るため、またこの地上で神の管理人となるために選ばれた人として、皆さんにこの偉大な聖人を描写することで、この祭日をよりよく祝いたいと思ったのです。