聖フランシスコと聖クララ

聖フランシスコと聖クララ

 フランシスコが全てを捨てて「これからは、私の本当の父はピエトロ・ベルナルドーネではなく、天の父です」と宣言し、回心の生き方を始めたことは、アッシジの街の大きな出来事でした。クララも当然一部始終を知っていた事でしょう。

 クララは秘かにフランシスコのもとを訪れ、指導を願いました。それはフランシスコの完全な清貧の生き方、全てを捨て去ったフランシスコの晴れやかな澄んだ笑顔の中に、神のみが与えることのできる無限の喜びを見出し、そこにクララに対する神の呼びかけを感じたからに違いありません。

 クララはその『遺言』の中で、こう記しています。 「聖人は回心後すぐに、まだ兄弟もいないうちにサンダミアノ教会を立て直す時、そこで神聖な慰めに満たされ、全く世を捨てるように導かれました。そして喜びと聖霊に溢れて私たちの事を預言なさいました。その後主はそれを実現されました。その時、その教会の塀の上から大きな声でフランス語で近くにいる人々に次のように言われました。“サンダミアノ教会を建て直すのを手伝いに来て下さい。そこは敬虔な淑女たちが住み、彼女たちの名声と聖なる生活は聖なる教会全体において、天の御父に栄光を帰することになるでしょうから。”」

 1212年の枝の主日の晩、クララは家を出て、友人のグエルフッチオのボナに伴われてフランシスコとその兄弟達が待つポルチュンクラへ向かいました。フランシスコと兄弟達はクララを待ちながら、深夜の読書課(読書課は本来夜中に唱える習慣)―受難の月曜日の読書課を唱えていました。第2朗読は聖アウグスチヌスの説教で、ラザロの姉妹マリアがイエスの足にナルドの香油を塗り、髪の毛でそれをぬぐった事についてでした。アウグスチヌスは最後に言います。「髪の毛は体の中で不必要なものです。あなた方は、余分な物を施すことによって、主の御足に香油を塗ったのである。」

 フランシスコと兄弟達はかがり火を手にクララを迎えます。そしてクララをポルチュンクラの小さな教会の祭壇の前に導き、フランシスコは自らの手でクララの髪を切りました。今しがた聞いたばかりのアウグスチヌスの言葉が今、目の前で実現しているのを見て、フランシスコと兄弟達の心は、どれほど感動に震えたことでしょう。そしてクララは世俗の衣服を脱ぎ、回心の貧しい修道服を身に着け、こうしてクララは神と婚姻を結び、キリストの花嫁となりました。

 フランシスコはクララを最終的にサンダミアノに導き、その場所に、あたかも小さな苗木を植えるかのようにクララをそこに植え付け―住まわせます。これがクララ会の始まりです。ですからクララは度々、「会則」や「遺言」の中で自分の事を「聖フランシスコの小さき苗木」と呼びました。

 クララはまた、女性で初めて会則を書いた人ですが、その「会則」の第1章の冒頭にこう記しています。

 「聖フランシスコによって創立された貧しき姉妹達の生活様式はここに始まる。」

 そして、クララが立てた誓願については、このような言い方をしています。「聖フランシスコに約束した従順」「聖フランシスコに約束した清貧」。(会則)(遺言) なお聖フランシスコはクララに対して、貧しき姉妹達の「生活様式」を書き残しています。 「神感によってあなた達はあなた方自身を、いと高き君主なる王、天の御父の娘、はしためとして聖霊をあなた方の淨配とし聖福音の完全さに従って生きることを選ばれましたから、私は私自身と私の兄弟達が彼らの為と同じようにあなた方の為に常に真面目な注意と特別な配慮をすることを約束いたします。」(会則6:3)

 また、フランシスコは自分が観想に召されているのか、あるいは宣教かと迷った時に、クララに使いを送りその識別の為に祈ってくれるように頼みました。そしてフランシスコが失明し、病気が重かった時、サンダミアノのクララのもとにしばらく身を寄せました。あの“太陽の歌”は、この時作られた、と伝えられています。

 クララにとってフランシスコとは「神の次に私たちの柱であり、支え、唯一の慰め」でした。(遺言) その生涯の終りに、クララは兄弟ライナルドに向かってこう話しています。 「私が主のしもべフランシスコを通して私の主イエス・キリストの恵みを知るようになってから、どんな苦痛も辛すぎることはなく、どんな償いも厳しすぎたことはなく、愛する兄弟よ、どんな弱さも苦労ではありませんでした。」(伝記44)

 フランシスコはクララを、キリストの花嫁とし、その婚姻よって観想の高みへと導きました。 クララはフランシスコの清貧の理想を誰よりも実現し、生き抜いた真の弟子であり、真の友でした。