2人の姉妹の銀祝の記事
シスター・マリア・インマクラータ
心からの感謝を込めてイエズスの御受難のシスター・マリア・インマクラータ
私の前に生命への道、聖クララ会修道院のドアが開かれたのは、29年前、1988年聖年4月のことでした。
イエズス様は、「父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとに来ることは出来ない」と仰せになりましたが、父なる神様からの招き、その抗しがたい力に押されて、内心は恐れでいっぱいの私でしたが、未知の世界へと飛び込んで行きました。世間では一人前の社会人として働いていた私でしたが、霊的生活においては全くのベビーでした。修練長様はよく泣いていた私の手を引いて椅子に座らせ「涙の原因を話してご覧なさい!」と、私の涙を拭き、穴ぐらから引き上げてくださいました。そのような日が、つい昨日のことのように思い出されます。
たくさんの恩人の皆様の霊的と物質的援助をいただき、修院の院長様はじめ姉妹方の祈り、そして何よりも神様の恵みに支えられて、このたび25周年を祝う、大きな喜びを与えられましたことを、私たちに注がれている神様のいつくしみ深い愛とあわれみに心から感謝したいと思います。皆様の愛と祈りに支えられなければ、弱い私はとうの昔に倒れてしまって、この喜びの日を迎えることは出来なかったと痛感しています。自分の力を越えているこの召し出しの道!入会が遅かった私は、自分の限界、その弱さ、力の無さを毎日の生活の中で感じる年齢となりましたが、私の存在のすべてをもって、祈りと償いのこの生活を、心を新たにして邁進していきたいと決心しています。―「私は今日まで何もして来ませんでした。さあ、これから始めましょう!」―神よ、「私の捧げ物は砕かれた心、あなたは悔い改める心を見捨てられない」。この詩編の言葉を心に刻みつけ、無学で何のとりえも無い私ですから、母聖クララの娘として、召されたこの生命の道を、ひたすら従順と謙遜の内に歩み、神の御栄えと人々の霊魂の救いのために、マリア様の母としての御保護の下に身を置いて、誓願を生きたいと思っています。どうか弱い私のために、これからもお祈りをお願いいたします。
シスター・マリア・キアラ
銀祝を迎えてイエズスの十字架のシスター・マリア・キアラ
銀祝の恵みをいただいて何を書こう、どの時期にスポットライトを当てて書こうか? ふりかえれば、どんな時も全力投球で、楽しく、面白く、神の手の中にあったことを知るにいたった。
高校3年の時の文集の一つの質問に、「どんな人生を送りたいか。」というのがあり、「波瀾万丈」と書いた。そして、“愛”と“好き”の違いは何かを求める旅を始めた。
聖フランシスコのことを知りたい? それなら聖フランシスコのことばをいきてみることだ、と友人は答えた。あれから、どのくらいの年月が過ぎただろうか?やってみると奥が深くて…。
弱い私が「もう終わり」と、何度も発した心の叫びに、神は「いいんだよ、私がいつも支えてあげるから…」と。また傷ついている弟子たちに、「おはよう」「やあ、みんな」と声をかけられたように、「さあ、今から始めよう」と、勇気を与え立たせて下さる。
1月から4ヶ月の間、幼年期から今日までの日々をふり返り、黙想し、忘恩の姿にもかかわらず、神は何一つ欠けることなく、聴き、与えて下さっていることに気づかされた。そして最後の仕上げは、上記のことと平行して、食堂にかけてあるサン・ダミアーノの食堂の絵を通して、母聖クララと向き合った恵みの日々。今まで学んできた知識だけでなく、存在を実感させていただいた。
母聖クララの沈黙と、私の沈黙は全く違う。私の沈黙は、平和に満ちた沈黙ではなく、災いを避けるためであり、姉妹を通してやって来るみ旨を、こころよく受け入れたくなかった自分自身への執着、傲慢を、まざまざと見せつけられた。弱さは謙遜の道を歩くための妨げとならず、神と出会うために最も貴重なものであることを知った。聖母の足跡と言われた母聖クララの沈黙と隠れた生活は、教皇フランシスコが『神の御顔を探し求めよ』の中で、「一致の交わりは、画一性を意味しない。」と言われていることに、「そうです」と心から言えるものです。ここ桐生聖クララ会はそうです。ですから面白い。日常生活において試される。
堅忍の恵みと、修道家族、共同体のお一人お一人に感謝。姉妹なしには、今の私はない。愛する囲いの生活に感謝。神は私たち一人一人を愛しておられる。全世界がひっくり返っても、心の平和を失ってはならない。この道は、まだまだ続く。みことば、マザー・メリー・パイアスから学んだ多くのこと、みことばのちりばめられている生活。日常生活で起こる出来事を、どのように受けとめ、生きるかは、各自の霊的生活。
どこかで見、私の手元にある、この言葉は助けになった。
「難しいことを、やさしく、
やさしいことを深く、
深いことを楽しく、
楽しい中にも、まじめな心を忘れずに。」
そして最後に、福者パウロス六世のことばの一つ。
「幸いなるかな、教会の最も愛された娘であり、
教会の喜びと悲しみ、
教会の試練と希望に
与かるあなたたちは。」
神の御子の愛にとらわれた、囲いの生活に感謝。
当日の画像
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